一強迫性障害患者の救済2010年1月8日 身上

雑感
今年はどのような年にしようかとうっすらと感じるが、特に今、改まってどのようなとか言う具体的な変化は一向に求められない。なぜなら僕はここまで成長して、もうほぼ社会人となることが実現したからだ。これまでは僕は前提として、自身の生活を「社会復帰をなすための技能回復訓練」と銘打って生活してきた。それは今後も変わらないのだ。半引きこもりのような身分であった僕を社会復帰させることを、どのように実現させるかと高校生の頃に勘案して、自身に本来備わっているはずの自然治癒力を信じて自己流で頑張れば、必ず同世代に追いつくことは可能であるからと心に誓った。これは間違いではない。半引きこもり、半ニートの状態とはかなり荒んでいて苦しいものであった。頼りにするのは自分と親しかいない。教科書も手本もない。とにかく周りから出遅れて友人ゼロ、恋人なんて考えられない状態である。社交性、社会性、あらゆる人間性みたいなものが低迷していた。出遅れの人間というか、気持ちの悪い男の資質であった。卑下しているが、事実である。強迫症状も甚だしくとにかく苦しくて日々悶えていた。高校生の頃の僕である。
私の社会的地位
僕はまだ強迫性障害の色が濃いので、正直、正規雇用とか就職の実現には僕という今の資質が適していないと感じている。今のアルバイトが収入源であるが、強迫性障害を抱えている上であってもこの世界に生きていくために、半ば諦めの境地で仕方なくやっているようなものである。強迫が前提にあると、本来の、と言うか理想的な自分らしい職務能力が履行されないのではないのかという懸念もある。実際そうなのだ。集中できにくいとか、雑念が浮かぶとか、まあ誰にでもあり得るが、その上でも、適正な職務遂行能力が不完全で乏しいと感じている。従ってこれはアルバイトという社会的地位だから許されているような気もするし、正規雇用ともなった時に生じる社会的責任や職責、利害関係、失敗の許されない莫大なプレッシャーなどに耐え続けて給料をもらうというような生活に対する自信があまりない。このような言い方をするとアルバイトは所詮地位が低くて社会的責任も小さいと言っているようだが、一般的に考えて正規雇用と非正規雇用とは差があり過ぎると感じるからだ。顕著なのは家庭を持てるか否かの違いである。真面目に考えた時に、アルバイトの今の状況は社会保険、昇級賞与、有給休暇等の正社員の待遇には絶対に勝てない。家庭を持つなんて僕にとっては20年早いが、フリーターで結婚するなんて聞いたこともない。僕は23歳であるが、早い人はもう結婚している場合もあるが、全くの嫉妬の対象である。何よりも今現在における僕の強迫症状がある本質というか資質では、正社員のどのような職場でも適応が難しくなるかも知れないという疑問もある。そのような気がするのだからこれまでの経験からその通りなのだろうと思ってしまう。総じて強迫症状があるために十分な仕事や接客ができないし、重要で良好な人間関係が築けないかも知れないと強く思っている。端的に自信がない。今のアルバイトにおいては、ボランティア残業は割り切っている。その理由は、やはり強迫症状がある中で敢えて自身の生活のために仕事をしている後ろめたさと言うか、申し訳なさや罪の意識があるためにその穴埋めをしたいという意向であり、一方で強迫のある自分に対してでもこうやってアルバイトではあるが職場という“僕の居場所”が存在することに対する嬉しさからでもある。仕事の短い休憩中に携帯電話をいじっても何もメールもなくて、ただ疲れてなんにも考えないでボサーと充電時間としている。そのような自分に虚しさや苛立ちさえも覚える。仕事をしていると仕事のことだけに集中できているし、あまり余計なことを強制的に意識できにくくなる。それが強迫については行動療法的になっていて治療というか訓練にもなる。僕のポジティブプラス思考で行くと仕事が給料の発生と強迫の回復に繋がって一石二鳥である。だから仕事はあまり苦痛でもないし、今の僕にとってはこれが合っているのだと感じている。またはそれしかする方法がないのだ。その事実に感謝しているし、今における強迫がある生活は、それ自体で二流三流であるのだから、その前提で仕事をしているのは、それに応じた給料をもらうべきだという僕の願いでもある。見方を変えれば謙虚な姿勢とか過小評価である。僕は強迫症状のある今はまだ、上等な仕事をすることができないと思っている。それだから僕でも通用するようなアルバイト先で自分のできることを生活のために最大限やっているし、これは間違いではない。強迫性障害が最終的に解決するまでの日常の今という時を乗り切るのは、これもまた一つの試練であると割り切っているのだ。まだしばらくはこのような生活を持続させたいと考えているし、何年も続く訳もなくしたい。これからも取りあえずの短い日程にはなるだろうが、僕は自身の内面を磨きながらこうやって生活していこうと欲は張らずにひたむきに生きたい。そして試練に耐えて今という時を無事に乗り越えてみせる。自分を信じる僕が僕である限り。
エビリファイの効力
相変わらず「エビリファイ」を飲み続けて、救われている。総じて言えることは、僕がエビリファイを飲み始めて最近になって量が増えてどのような状態かというと、一概には言えないが、強迫症状が軽減・減少して、それに伴い憂うつ感や不安感が緩和されている点である。以前に増して生活全般にやる気が起きて、精神的に余裕が出てきてより過ごしやすくなった。抗精神病薬であるこの薬は統合失調症に使われるが、強迫や鬱にも適応の流れがあり、アメリカでは既に認可されているらしい。僕の持論であるが、強迫性障害とうつ病は二律背反していると思う。だから投薬は似ている。そもそもどのような処方形態が自分に合うかが、医者の器量の範囲だが、それに巡り会うのも患者個人の運であるとも思う。僕はやっとこの服薬形態に辿り着いて落ち着いているが、これまでに実に多くの精神安定剤を飲んできた。自慢にはならないが薬が僕の生活をさらに安定的に持続させている。エビリファイを飲むようになって本当に元気が出てきて嬉しい。特に朝方の憂うつ感が緩和されて身体が軽くなった。やる気が出てきて仕事に対しても何時間も走りっぱなしの内容でもなんら苦痛にならずに、常に前を向いて集中して取り組むことができるようになったことは、「エビリファイ」の持つ魔力のようなものさえも感じる。エビリファイは一日2錠の処方だが、余っている分を頓服で一日3錠飲む日もある。そうすると尚更良い気がして、これはこの経緯を次回の診療では医師に伝えて増やした方が良いのかも知れないという欲がどうしても出てきてしまう。だが、何事も服薬も“ほどほど”が良い。薬に頼るのは精神科に対する依存であり自身の弱さでもあるし、ある意味で逃避である。いつも思うのだが、種々の勝負というのは現実世界でどんどんやるべきで、どれだけ奥が深くても神経症の世界でいくら議論をやってもしょうがないのだ。狂ったような世界は置いておいて、潔く健康世界に入るべきだ。そのようにしてどうなるのか。僕の本来あるべき姿に自ら近づくのだ。その上で僕はまた、自身の理想と未来を語ることができるのだろう。
孤独の救済
最近EXILEの「優しい光」という曲に出合って今聞いているが、この悲しいまでの悲壮感や切ない愛の情景みたいなバラードはメロディからして良いなと感心している。「君の中の孤独を照らす優しい光になりたくて…」そんな愛は成立するのか。僕は正直、今になって思うのが、また重なるが他人を愛するというような経験を一度もしたことがないので、擦れっ枯らしであるが、一体そんなものは自身のこれからにも遅咲きということで発現するのか否かの懸念がある。人を好きだとか愛しているだとかの感情は僕にとってどういうものなのか、またはどのような感覚になるのか本気で分からない。実質23年間孤独である。だが、やはりそういうのはどうでも良い。僕はいつもそういったような悲壮感とカタルシスに浸っている。孤独というのは切ないが強いもので、全てのアクション・動作に於いて自分の脳から来る司令だけを信じて意思で判断する。間違いも起こるが、そこで立ち止まっていてはならない。僕の場合は、孤独であることも強迫であることも常日頃の条件のようなもので命題である。そういうのの克服みたいな情熱は、今は通り越して消え失せている。境遇から学ぶものがあり一定のものを手にすることができた。ではこれからどううあるべきかが問われているのだ。今はただ、生きていたい。
チョンガーの女神
時代と時はどんどん移り変わっており、時は金でもある。それは僕にも当然適用される。人間であるから。その内容は歌であったり、ブームであったりというような趣味の範囲でもある。特に僕は音楽を鑑賞するのが好きなので、良く音楽番組を見るのだが、特に年初にあった年越しのTBS系列の「カウントダウンTV」は良かった。特に今話題らしい現代版アイドルグループ?「AKB48」が良いなと感じてしまった。アイドルというのはかわいいのは前提であり、あとは時代と楽曲に恵まれるかであると思う。笑顔のかわいい子に自身を投影してしまったが、端的には女神への憧れ若しくは恋愛経験のない劣等感である。元気と勇気とオーラ的なアイドルとしての資質を問われ続けている。僕の理想とする人間をアイドルに投影する。こんなのが良いとか。いくらでも言える。例えば僕の趣向の特徴として、背が高くて色が白くて明るいとような器量と人格もいるのかも知れない。特にアイドルともなれば毎日が戦争であろうが、それを勝ち抜いて生き残る様はサバイバーである。その姿勢に勢いさえも感じる。複雑な人間関係、熾烈な競争の上に成り立つ選りすぐりの資質というか素質というのは、世界にたった一人という本人にしか適用されない。これも適材適所かも知れない。だから貴重な存在である。この広い世間に異性について絶対に言えることは、先生曰く僕と波長が合う女性は必ず存在しているはずで、単に他人のまま年を取っていくのだろうと思えれば尚切ない。想像とは得てして自由である。僕自身にそういう理想もある意味適用されてしまっても良い人材だと思っている。サバイバーであるから。そう考えると今生きているのは世界にたった一人の一人格を保持する立派な社会人であろう。そういう者に私はなりたい。
この顔で笑顔
特にアイドルは常に笑顔が求められる。カメラの前では綺麗な笑顔でみんな演じている。それが当然であり、見ている方も自然と見入ってしまう。僕は自分の顔にコンプレックスを持っているとは必ずしも言えないが、仕事柄接客業なので笑顔は重要であるという認識からすれば、この自分の顔を持って笑顔を披露、立証させなければならない。現実的な選択とはよく言ったものだが、今の飲食店に勤める以上はプロである必要があり、笑顔も絶やしてもならない。しかし僕は多分できてはいないという甘さがある。それを負い目に、少しでも笑顔に近づけるように「にこやかな顔で」という仕事上常日頃の心がけがある。親や友達と接する時は自然と笑顔になって、医者からも活き活きとした色艶の良い顔立ちだというようなことをよく言われる。飲食店として接客業として笑顔は前提で絶対であり、普通に出来て当然であるのだ。僕はいろいろ見てきて自分もそうなりたいと考えている。それが、功を奏して僕の顔が徐々ににこやかになりつつあることが実感として湧いてきた。努力をする姿勢はどのようなことでも報われるのだという一面を体感している。そして笑顔は一番である。
抱負
やはり今年一年の目標は具体的には未だに決まってはいないが、初詣に一人で行った時に引いた御神籤が「大吉」であったのには気分が非常に良くなった。実家の近所のこぢんまりとした神社に行ったのだが、他に誰もいなくて貸し切り状態だった。今年もただ一人であった。僕は、今年は常に良い年であるという前提を信じていたい。綺麗事であるが僕の目標を敢えて言うと、「さらに自身の内面を磨いてあわよくば正規雇用に繋がるように、強迫性障害も軽快するように努めたい」。僕の人生はそれからなのである。様々な意味で。僕は初心を忘れてはいない。半引きこもり半ニートであった高校生の頃に発現した「社会復帰のための技能回復訓練」の延長上に今の僕が確かにいる事実を。飽くまでも社会に復帰するための訓練であるという認識からは、社会復帰をせねばならない立場であった証拠であり、「負の遺産」でもある。この場合のキーワードは自らに本来備わっているはずである「自然治癒力」の存在である。僕は幸い統合失調症のような難しい精神病ではない。この身体で回復する公算が十分にあるのだ。だから救済される。自然治癒力は、もちろん精神面においても通用すると考える。薬の力は借りるが、いろいろやって経験していく過程で、僕は確実に成長して救われたと感じている。最早社会復帰という点に於いては十分達成できていると思える。だが初心を忘れてはならないだろう。ずっと孤独で強迫性障害に常に煽られてきた。子供の頃の思い出は強迫だらけの苦しいもので、特に人間関係で支障が出ていた。荒んだ精神状態により公立の高等学校を中退してしまったようなものである。深層心理で強迫に逃げてきたのかも知れないが、やはり異質で苦痛のスムーズでない理不尽な思考回路や観念や衝動や感情は間違っている。飽くまでも医学的には病気である。だが究極的には病気ではない。絶対にそう今でも思えてならない。だが僕の努力の甲斐があって少しずつ解決されている。一つずつであるが、前進してまたその時々の試練に挑み続けたい。これからもずっとである。
優しさと勢い
今年も僕が生きていく限り、次から次に異なった出来事や事象が目の前に波のように襲ってきたとしても、それらを乗り越えるだけの資質というか人格を高めていきたい。そして常に僕がこの世に生き続ける意義を見出し、どこまで追究できるのか、強迫性障害の治癒をどこまで極めることができるのかが試されているのだと思う。また綺麗事ではあるが、ここまでなんとか自分を持ってくることができた。僕は今、強迫性障害を如何に治癒させながら、自分の新の境地を開拓してゆけるか、どこまで踏み込めるか、到達できるかが試されているのだとも思っている。試練の連続は別に大したこともないが。妥協もしてきた。間違いもあった。それらを踏まえて挑んででも、なかなか到達できない自分の理想を追い求めている。常に大きな夢は持ち続けていたい。そして、僕は、決して死んではならない。死ぬのは仮に哲学的に見て美学とされても、どのような場合でもそれらは屁理屈であり逃避である。孤独に耐えて、強迫に耐えて、服薬に耐えて、それでも自分の内に秘めているであろう精神的エネルギーを信じながら、僕がこの世で達成できるであろう修行を遂行してみせる。
「優しさと勢い」は難しい。奥行きがありそこはまるで見えない。それはこれからの可能性の莫大さからである。僕はそう解釈している。これまでの強迫の過程で発現してしまった信念は、常に僕の心の中にある限り、僕を側面的に支え続ける。確かなものと、正当性、主張、個性、脆弱さを併せ持つ僕の理想の塊を抽象的に現したのが「優しさと勢い」である。僕の中心で僕をコントロールする舵を動かす基盤であり、精神的エネルギーさらには生きることへの情熱であろう。だがそれらは総じて屁理屈でもあることも分かっている。実際には理屈も屁理屈も一切通用しない。そういうのもこれまでの経緯から分かるような気がする。そのはずである。そして分からないものは分からない。確かに分かるのは、僕という人間性を持った者である。自己陶酔ではなく真実であろう。この世に奇跡的に生まれることができた。両親に感謝している。得てして神経症を持っていた。そして大切な信念というか宗教というか、これまでの経緯から僕の基盤たるこの世の理念を偶発的に知ってしまった。決して宗教ではない。「これがあるから多分大丈夫だろう」というような閾値に到達しつつあるが、まだまだ僕は甘いとも感じている。
その甘さをどう克服するか。逃げずに立ち向かえるのかだと思う。いや、立ち向かうのだ。僕はサバイバーであるから。
状況は常に変化しつつあるが、その中でも僕の信念は相変わらず一貫していたい。
今年も常に「優しさと勢い」を強く追い求めて、そして切に祈りながら。
Zokusanumono

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